いつも素晴らしい文章で、FBのフォロワーが約17000人いらっしゃる船木威徳医師が来店され、輪島の塗師屋大崎さんご夫妻のお話会にご参加いただき、輪島の漆器展・魔法の箒展と1階ショップをご覧いただいたこと、輪島塗の中でもピンの輪島塗と魔法の箒について、記事を書いてくださいました(最下部)。
これほど丁寧に記事を書いてくださったことに驚きましたし、とても有難く感謝しています。
いつも「輪島塗にもピンからキリまであります」と言っていますが、船木先生の記事を読んでいただくと、当店の輪島塗や魔法の箒が一般的な漆器や箒とは、まったく違う別次元の高品質なものであることがお分かりいただけると思います。そばちょこ型のカップをお使いいただき、「何を飲んでもやわらかい味になる」と、まさに、「未体験のことは正しく想像できない」だったのではないかと思います。
文中にある、133工程は、大崎さんによると「他の工房ではそこまでやっていない」ということでしたし、「伝統の工程を守っていないものは、本来輪島塗とは呼べない」という心意氣で、手を抜かない物造りを続けていらっしゃいます。
私が、他の輪島塗ではなく、大崎さんの漆器を長年取扱い・お勧めしているのは、断トツの品質と、そういった「想い」「志」「人間性」に共感しているのも理由の1つです。
「魔法の箒」は、「度肝を抜かれた」ということで、「世界最高のMade in Japan」は、想像を超えていたようです。「本物との出逢いで人生が変わる」のです。
掃除機を使うよりも断然エコでお金が節約できることに加え、お使いになっているお客様の代表的なご感想を5つ、いつもお伝えしています。
「掃除機よりもゴミが取れる」
「掃除機よりも便利」
「お掃除が楽しくなりました」
「自分の心まで清められる」
「場が浄化される」
講演会にお持ちしている品々のレベルになると、「物を買うのではなく、本物でしかできない体験を買う」とお伝えしています。
船木先生が書いてくださった
「たくさんのにせものに騙され、見えなくされ
大切な先祖たちの智慧や技術、真の資源まで
売り払い、または途絶えさせてしまっている
日本や日本人を、いま一度生き返らせるのは
他国の大統領でも、声の大きなものでもなく
私たち日本人の一人一人である」
まさに、私が講演会でお傳えしていることです。
政治家や他人を批難するより、救世主を求めるよりも必要なことは、私達一人ひとりが行動や実践をすることです。
それなくして、社会は良くなりませんし、日本・子ども達の未来も厳しくなります。
政治家・他人のせいにしているうちは駄目で、自分達でなんとかする、という気概や志が大事です。
以下、船木医師の記事です。
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【本物が作る「氣」】
実は、先週末、とある街に行っていまして。
ある県の県庁所在地で、全国的に有名な
大名の天下だった場所です。
その街のあるお店をたずねた目的は、
元旦の能登の震災に直撃された、ある、
輪島塗の工房の代表ご夫婦の話を聴くこと。
私は、北海道にいた学生時代、神戸にあった
実家は、阪神淡路の被害に遭いました。
今度は、2011年の東日本で都内でも大変な
揺れに見舞われ、自分がいた診療所が、
あきらかにゆがむのを見ながら、診察台の
下にかくれて、もう本当に、死を覚悟しました。
なので、震災ということばを聞くだけで、
いまも涙が出そうになるのです。なぜか、
能登の地震については詳しい情報がなかなか
入ってきません。そして初めて聞いた現地の
体験談は、壮絶の一言です。
それなのに、漆器のすばらしさ、職人として
ただただ「日本の伝統と、豊かな資源」を
淡々と守り抜いてきたその姿勢に驚くばかり
でした。
漆器は英語でjapanとあらわしますが、
世界が日本の漆器こそ「漆器」だと評価して
きた理由が、深く理解できたのです。
輪島塗の完成までに133工程があって、その
ひとつでも抜けたら、輪島塗とは認められ
ないと言います。
塩酸や硫酸を入れても平気という、漆器。
その工房のご主人は「しまい込まずに、毎日
使ってこそ、味わいが出てくる」と言います。
一生もの、どころか代々使えるものとは言え
私もその「本物」の漆器を手にするのは
人生で初めてなので、お茶でも、酒でも
なんでも注げる器をひとつだけ買って、
毎朝、毎夕、すべての飲み物をその器に
注いで使い始めたところです。
麦茶も緑茶も、焼酎の炭酸割も、みんな
やわらかい味になるのです。
丈夫なのに、唇にあたるやわらかさが
なんとも言えない・・・。
本物の漆器は、日本で育ったウルシでしか
作れないとのこと。化学的な分析をおこなって
中国産の原料とは明らかな違いが生じるとの
ことでした。だからこそ、japanなのでしょう。
終始笑顔の、ご夫婦でしたが、これまで、
そして地震後の避難所生活では血のにじむ
ようなご苦労があったはずです。被災した工房
の作品もまだ、すべては運び出せていない
そうです・・・。
あまり書くと、私が泣きそうなので、あくまで
日本の職人さんたちの生み出した作品に
ついて、学び、大事に、そして普段から
使い続けて、大切な日本の文化を応援して
いきたいと強く想ったということを記すに
とどめておきたいと想います。
そして、訪問のもうひとつの目的は、
その能登の漆器の職人さんたちを呼んで
展示会・講演会を開いておられた、私の
知人のお店を見せてもらうことでした。
もう、なんというのか、置かれている商品の
すべてが、
で、本物しかない、としか説明できません。
履物のひとつ、シャツのひとつについて
尋ねようものなら、一品目の説明だけで
15分くらいかかるのです。
本当は甲府の観光もしたかったのですが、
結局、帰りの列車の時間までお店にいました。
日常生活で当たり前に使う、調理器具、食器、
衣料品、履物から木製ヘアブラシ、あと、
ここには書ききれないほどたくさんの品を
詳しく見せてもらったのですが、私がなかでも
心奪われたのは「ほうき」でした。
30年は使えて、電気掃除機よりもきれいに
掃除ができる、とのことでした。もちろん、
いろいろいいなあと感じるものはありましたが
どうしてもその「ほうき」に想いが向き、
自宅用に、ほうきをぶらさげて、電車を
乗り継いで帰ってきたのですが・・・。
驚きました。
本当に、度肝を抜かれる、というのは
こういうことを言うのでしょう。
自宅のフローリングの床を、言われたとおりに
数回、軽く掃いただけです。それなのに、
掃除機をかけているはずの床から、ほんの
狭い範囲をそのほうきで掃いただけで、
ほうきの先に驚くほどのほこりや髪の毛、
ちいさなゴミがついているのです。
私は、普段から自宅でははだしでいるのです
が、数回ほうきをかけただけの床の感触が
全く違うのです。そして、どう表現したらいいか
分からないのですが、
部屋の空氣が変わります。
雑音が遮断されて、空氣がきれいになり
よどみが消えてなくなるような感覚。
喩えるなら、静かなお寺のなかに入った
あの感覚です。
お店の店主で知人の、
保坂浩輝さんが、ほうきの説明をしながら
話していたことで、ひとつだけ強く記憶に
残っていることがあります。
「日本語では、ただ掃く、拭く、ではなくて
『掃き清める、(窓を)磨く』ということばを
使いますよね。掃除ひとつとっても、
やっているのはただの掃き掃除、拭き掃除
だけではないのです。」
実際に、その(岩手県二戸市で材料を栽培、
製造)ほうきを使って、部屋を掃除して、
感動しながらも、ふと想ったのは。
こんなに目に見えるレベルの汚れにさえ
気づかないで、汚れ、すさんだ部屋で
何十年と過ごしてきたなかで、積まれてきた
汚れ、よどみ、穢れというものが、なおさら
私自身の目や心の力を貶めてきたのでは
ないかということ。
小さい時に、私は、山口県の田舎町に
住んでいたのですが、自宅の近くのお寺の
住職さんに書道を習いに行っていました。
幼稚園の頃のことです。
だだっ広いお堂のなかで習字をしたのですが
まず最初に、床や柱の雑巾がけをさせられて
いたことを想い出します。(さらに住職の
腰を踏むように言われたことも・・・)
そしてようやく、きれいになった部屋で、
習字の時間になるのですが、いま想えば、
床や柱を拭くことで、子どもたち自身の心を
清め、落ち着かせて、大きな仏像にむかって
書き方に向かわせるという、そんな段取り
だったのかもしれません。
電気掃除機では、決して取れない「汚れ」。
それを取り去ることができるとするなら、
やはり「本物」の力、日本人に受け継がれた
「本物」の智慧なのだとよく分かりました。
日本には、日本人には、数えきれないほどの
「本物」が受け継がれています。それを知り、
実際に本物を作り、支えている人たちに聞く
なら、真の意味で日本人の眼が開かれる
でしょう。
たくさんのにせものに騙され、見えなくされ
大切な先祖たちの智慧や技術、真の資源まで
売り払い、または途絶えさせてしまっている
日本や日本人を、いま一度生き返らせるのは
他国の大統領でも、声の大きなものでもなく
私たち日本人の一人一人であることを
あらためて想わずにはいられない、そんな
ほうきとの出逢いでした。